「やさしいにほんご」と学びの重なり。
地震被害や豪雨災害等で避難所生活や不便な生活を強いられているすべての皆さまに心からお見舞い申し上げます。
2011年3月。猪苗代町
2011年の「東日本大震災」。
その日。
20代だった私は、現在と同じ自然に溢れた「猪苗代高校」に勤務していました。
感じたことのない大きな地震。
それは近くの棚や冷蔵庫が倒れないようにするためだったのか、自分の身体を支えるためだったのか今となってはわかりませんが、職員たちは体勢を崩しながら現状がおさまるのをじっと耐えたのでした。
途切れることなく続く大きな揺れに足をとられながら、なんとか屋外に出た私は、前後に大きく「しなる」校舎を目にしました。
校舎の北に目を移せば、そこにはいつもと同じ雄大な景色があります。
まだ揺れの只中にあり未曾有のニュースに触れていない私は、「磐梯山の噴火」を本気で考え、「こんなときに何をすれば良いのか」も思い巡らすことができずにいました。
「吉名の丘」から少し北。海辺の町で
翌年、2012年の4月。
私は、海沿いの町「南相馬」にある学校に赴任しました。
町内からは、震災前であれば見えるはずがなかったという海。
そして、南相馬の町にあるスポーツ広場の片隅に建てられていたのは2棟のプレハブ校舎。
もともとはスポーツ広場よりずっと南、南相馬市小高区「吉名の丘」に建っていたその工業高校。
今となってはなかなか想像することも難しいですが、2012年の3月まで、県内5箇所に分かれた「サテライト校」において高校生活を送っていた生徒たち。
放射線量や避難状況の関係で、それぞれ本校舎から離れた県内5つの町にサテライト校は設けられたのでした。
本校舎のある「吉名の丘」から北上した海辺の町の、このスポーツ広場に建てられた「たった2棟のプレハブ校舎」に生徒たちが久しぶりに集まることができたのが、まさにこの2012年4月でした。
本校舎で学ぶ機会こそ奪われてしまったとはいえ、「『吉名の丘』の伝統を大切に守っていこう」という先生方や地域の皆さまの強い思いが、震災直後の困難な状況を、学校を、生徒たちを支えてくれていたように感じます。
誰かが歩くたびに廊下がギシギシときしむプレハブの校舎には、無邪気に笑い、ヤンチャをしては怒られ、そしてまた逃げるように笑顔で駆けていく生徒たちの姿。
被災地がゆえに傷つくことも人知れず多かったであろうし、そんな彼らにどれだけ寄り添うことができていただろうと、今になっても思い返します。
少しずつ、力強く歩み続ける南相馬の町を見つめながら、4年の月日をそこで過ごしました。
その後のいわきでの5年間も、容易に語り尽くすことはできません。
福島県の浜通り地域での教員生活は、約10年にもなりました。
それぞれの地域にそれぞれの生活があり、家庭があり、そして生徒がいて。
目にしてきたのは、「震災」と「復興」という言葉と、その「困難さと真剣に向き合い続けること」とが常に隣り合わせの日常でもありました。
猪苗代で「防災」を学ぶということ
浜通りでの約10年間を終え、猪苗代高校に戻ることになったのが3年半前。
そこには、2011年当時では想像もしていなかった「『防災』について学ぶ時間」が設定されていました。
まだまだ生まれたてであったその「学び」。
東西に広がる福島県にあって、一番西側「会津地方」に属する猪苗代町。
そこで学校生活を送る猪苗代高生だからこそ、「防災」について学ぶことに意義があるのではと、その「尊さ」を噛みしめます。
3年半前の赴任時、
「自分がもし被災したらどうだろうか。考えてみよう」なんて質問に対して、その「答え」すら想像することに苦戦をする生徒たち。
それでも、なんとか「自分ごと」としてその問いを消化しようとする生徒たちの様子を眺めながら、「これは、けして無くしてはならない『学び』である」と、思いを強くしたものでした。
それから月日を重ねて───。
現在。
国立磐梯青少年交流の家の皆さんや福島自衛隊会津若松出張所の皆さん方とのやりとりを繰り返しながら、この「『防災』に関する学び」は、年々ブラッシュアップを重ねています。
今回は、そんな猪苗代高校における「防災・減災学習」への向き合い方について取り上げます。
会津磐梯山と猪苗代湖という壮大なる自然に抱かれながら「学び」を深める猪苗代高校生が「『防災』を意識し続けること」の意義について、少しでも感じてもらえたらありがたいです。
R6.5.30 防災・減災合宿に向けて~3年生向け事前指導の時間~
猪苗代高校は、何を隠そう全校生60名に満たない小規模校です。
小規模校だから諦めなくてはならないことも、残念ながらいくつかあります。
一方で、だからこそチャレンジできることがたくさんあることも事実です。
6月頭に設定されている1泊2日の「防災・減災合宿」は、そのほとんどのプログラムを学年の枠を超えた「異学年のグループ編成」によって実施します。
現在、1学年1クラス。
どうせ社会に出てしまったら、みんな年齢なんてバラバラです。
だったら、学年の枠はできる限り取り払ったうえで活動させていこう。
それは、小規模校だからこそ容易に実施可能な「防災・減災合宿」の裏のテーマでもあったりします。
異学年によるグループワーク。
当然、3年生に求められるのはリーダーシップや全体を見渡す広い視野。
この日は、合宿当日になって慌てることのないように、国立磐梯青少年交流の家の皆さんに来校いただいての3年生対象「事前ワークショップ」。
毎年、メニューがちょっとずつマイナーチェンジを繰り返そうと、「防災・減災合宿」では定番プログラムとなった「HUG訓練」(避難所運営ゲーム)。
当日、下級生たちに安心して取り組んでもらえるように、この日は3年生だけでのデモンストレーションを行いました。
動機が「後輩に格好の悪い姿は見せられない」かどうかは分かりませんが、3年生たち、本気になって取り組みます。
学びを重ねることの意義
そうそう。
この「HUG訓練」事前指導の際、「うれしい出来事」が一つありました。
昨年度の「防災・減災合宿」内に福島県立博物館の筑波先生からご指導いただいた『やさしいにほんご』。
さまざまな年齢、国籍の人たちが行き交うことになるであろう被災地(避難所)において、「誰にでも伝わる言語」を用いることの大切さについて学びました。
そして、この日の「HUG訓練」デモンストレーション。
避難者に向けた「情報共有用掲示版」への記載方法について、意見を交わし合う生徒たち。
「海外の人や小さい子どもたちにも伝わるように『ひらがな表記』で書いた方がいいかな?」
「あ、去年習った『やさしいにほんご』じゃん、それ!」
「じゃあさ、さっき書いてきたメッセージにも『ふりがな』ふってきてあげたら良いよね」
一瞬、他の学年の探究の様子を見るために現場を離れていた私。
教室に戻り、そんな「生徒同士のやりとり」を担任の先生から伝え聞いて、なんだか胸がいっぱいになってしまいました。
変えなきゃいけないこともあれば、変えちゃいけないことだってやっぱりあって。
常日頃から考え続けることが難しい「防災・減災」の分野だからこそ、「新しい情報」ばかりではなく、心の深いところにしっかりと根付くような────ふとしたときに、「言葉として、行動として」ふいに思い返せるものに目を向けたい。
毎年同じ「学び」の繰り返しであっても、
「確かで、丁寧に学び続ける先にこそ得られる『何か』を求めること」もやっぱり大切なのではないだろうか。
そんな、行き着いたばかりのまだ正しいかもわからないふわふわした「答え」と、ここまでの防災学習の在り方を考え続けた日々とを交互に反芻(はんすう)しながら、「HUG訓練」に熱中する生徒たちをながめます。
一年に一回の「防災・減災合宿」。
マンネリ化しないように。
そして、少しでも新たな「学び」を取り入れられたらと、その道の専門家の皆さんとギリギリまで打ち合わせを重ねた4月、5月。
校内でも「去年十分に活動できたメニューは、今年はやらなくてもいいんじゃない?」なんて意見がなかったわけではありません。
悩んだあげく、大幅なプログラムの変更をもくろむも、結果として多少のマイナーチェンジこそあれ、元の鞘(さや)に落ち着いた今年度のメニュー。
これでよかったのか。
やっぱり大きく変更するべきだったのか。
本番の「防災・減災合宿」を一週間後に控え、なんとなくモヤモヤした日々を過ごしていた私は、そんな「生徒たちのやりとり」を伝え聞いて、「学びを重ねること」の意義を噛みしめたのでした。
→→→「防災・減災合宿」当日の様子や、その他の防災学習については、また次回の記事で。
※なるべく早くアップできるようがんばります。
「note」で伝えたい取り組みがたくさん溜まりすぎてなかなか困っております……。
現行の最新活動についてはトップページから「公式X」へお飛びください。
生徒たち、色々頑張っています。
本記事を含めた「防災・減災」に関する活動について。
何が正しいかは分かりませんし、もっと効率的で効果的な「学び」もおそらくあるのかもしれません。
とある高校の「『防災・減災』への向き合い方」の一事例として、何か参考にしていただければとても嬉しいです。